天才「田中角栄」という政治家を惜しむ
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最終更新日:2017/07/02
人物
戦後の総理大臣の数は、かなり居ると思うけれど、その中で一人の政治家に集中して多くの本に書かれると言う事は、凄い人物であると言えよう。
本屋さんに「田中角栄」を書いた本がたくさん並んでいます。 彼がこの世を去って20年も経った今、なぜ他の政治家以上に多いのか、それは人々が、田中角栄の何かを 求めているのだと思う。 今 日本に欠けているものを、国民は求めているのだと思う。
田中角栄が、人一倍に持っていたものは 「心」と「情」でした。 そして 田中角栄は、兎に角「天才」でした。 だから私は若い時から彼を本当に尊敬して大好きでした。
高等小学校の学歴しかなかった彼は、一国の総理大臣になり「今太閤」と言われました。
彼の様な政治家は、その後には出てきていないし、これからもおそらく出ないと思う。
私は彼と同じ新潟県人ですが、それとは関係なく本当に彼が好きでした。ですから彼の最期があまりにも可哀そうで、また良く理解出来ないままでしたから、「田中角栄」について読んだ書籍を参考にして、彼の人生を振り返って見る事にしました。
「天才とは 1%の運と99%の努力」 と言うけれど、田中角栄はまさしく「努力」の人でした。 私が自分の生きてきた人生の中で天才と思う人は日本人では、2人です。一人は「美空ひばり」 そして「田中角栄」です。 天才は亡くなっても消えません。
今日は その天才「田中角栄」について、図書館で読んだ書籍で 知り得た事を綴って見たいと思います。
「田中角栄」は1985年5月4日に新潟県の刈羽郡二田村に生まれました。長男と戸籍にはありますが、実際は二男で生まれました。 母は大変頭の良い人で、角栄はその母の頭の良い所に似たようです。頭が良く記憶力は抜群でした。
家は兼業農家で祖父は大工であったらしい、父親は牛馬商をしていて多少の山林も所有していた。 角栄はその父の度胸を受けついで育ったようです。 そして小さい頃は生活も良かった。 ところが角栄が小学校に入った頃、父の事業が事故で破綻したのです。
角栄少年は、大正14年4月に小学校に入学しました。 その頃の小学校の先生は優秀な教師団がいたようで、その感化が大きく角栄の人格、教養に影響した様です。
角栄少年の尋常小学校時代の成績は ずっと首席でした。 また 子供ながらに道筋の通った事を言い、見通しまでつけてそれが外れない。 勇気もあり 判断も的確であったという。 又先祖から伝えられたものを大事にすることを重んじていました。
学校での角栄少年は、抜群の成績でした。 ある先生は、「他の生徒に比較して角栄の成績は良すぎて、成績のつけようがない、参った。」と言っていたという。 そして、角栄を受け持った先生が、角栄に5年で終了して中学校に進学する事を進めた。
しかし 角栄は母の苦労を思うと中学に行く事に気が進まなくて、小学校の高等科に進む事にしたのでした。
高等小学校を卒業した(昭和8年3月)角栄を、先生方は、「一高でも 東大コースでも何処にでも保証出来た」と惜しんだほど角栄は優秀な少年だった。
高等小学校を卒業した後角栄は、ありとあらゆる本を読んだ。 そして東京に出て日本橋の土建会社(井上工業)の小僧として住み込みで働く事になった。 そして中学に進みたかった。 でも角栄は神田の中央工学校の土木科に入学した。
田中は中央工学校を卒業する頃から真剣に海軍兵学校の入試の為に勉強を始めた。 そしてめちゃくちゃ がり勉 したという。 そして海兵の身体検査にパスし、学科試験の直前の時 郷里から「母フメさんの具合が悪い」という知らせを受け、田中は不運で恵まれない母を思い、長男としての自分の責任を考え 海軍士官への長い夢を泣く泣く諦めました。 しかし、もし田中が海軍に入っていれば青年士官として太平洋戦争の犠牲になった事でしょう だからこれで良かったのですね。
その後田中は 駒込の個人建築事務所に勤めたのでした。
昭和12年 田中は 『共栄建築事務所』 の看板を掲げて一本立ちしました。 そして協力者に恵まれ、人に恵まれ、人に思われ、田中の元には仕事が殺到した。 田中は大変多忙であった。
田中土建の顧問に、大麻唯男という代議士がいた。 彼は田中に 衆議院選に出馬する事を勧めた最初の人であった。 そうして田中は出馬する事にした。
一回目は落選した。 そして二回目に多くの支持者と応援者によって最高点で当選した。
田中は豊富な知識と調査能力を買われて、第二次吉田内閣で法務政務次官に登用された。 吉田首相が田中を必要としたのは、田中が政治の閥務や選挙の技術者として卓越した才能を持っていたからであった。
32年、岸内閣の誕生によって田中は郵政相に任命された。 田中の政治的才能はここから堰を切ったように表舞台に出てきた様です。そして、政治家「田中角栄」の力量を印象づけた。
当時の総理は、吉田、鳩山、石橋、岸、池田、佐藤、と替わった。 そして佐藤政権で田中は幹事長になった。 その職務は 「コンピューター付きブルドーザー」というニックネームが付けられた様に優れた能力と、向こう意気の強さを持つ政治家だった。 田中の突進力が度々行き詰った国会審議の壁をぶち破ったのです。
田中角栄 という人物のずば抜けた政治的才能を、否定する者はいなかった。
昭和47年は佐藤内閣の政権が交代する年であった。 その前年の暮れのある日、佐藤首相の側近に田中は言った。 「首相が引退するまでは、私は佐藤内閣の為に全力を尽くす。 佐藤内閣が退いた後には 私はやりたい様にするつもりだ」 と総理を目指した。
そして田中は昭和47年7月6日に内閣総理大臣に指名された。 此の時54歳だった。 当時としては戦後政治史上 最も若い総理大臣であった。 こうして激動の 「角栄時代」の幕が開けられた。 田中角栄は正直な人であり、その人柄は浪花節的な義理人情の人であり、政界の最高権力をうかがう実力者としての強引さと、雪深い越後の出稼ぎ人から正に裸一貫で政界の最高峰に登り詰めたのだった。 それが 後には「巨悪の田中」と決めつけに転嫁した事に、私はどうしても解せないのである。一体何があったのか?
田中の政治行動は、戦後経済復興と、高度成長期に必要とされた政策の実現だった。 当時本人は 「議員立法三十三本を成立させた」 と自慢していた。
道路、住宅、防災、水防、などの公共投資関連法案を、議員立法の中心となしてものにしている。そして それが基になって 『日本列島改造論』 が誕生した。 これらの議員立法がなかったら、昭和50年代までの日本経済の高度成長は不可能であった。 田中の勝利は一種の革新であった。 田中内閣の支持率は60%の大台を超えた。
田中内閣の最初の外交が、「日中国交正常化」だった。 そしてこれが政権の唯一の功績となった。 その後 田中首相は さらに外交分野で新しい課題を解決しようと積極的な動きをみせる。 昭和48年10月に田中は、日ソ平和条約資源開発交渉 のため、モスクワに乗り込んだ。 当時ソ連経済は衰退していたので、日本の経済力への期待は大きく日本マネーの投入はソ連側にとって非常に魅力的なものであった。 しかし田中は 「領土」で先制攻撃に出る構えであった。
ソ連側は 資金援助を力説していたのに対し、田中は北方領土の話しをする為に来たのだ と言い、領土問題の進展がなければ共同声明も出さずに帰国すると言い、「イエスかノー」で迫った。 話はもつれて第4回会議にも及んだが、ついに 田中は北方領土問題を認めさせた。 こうして田中の人並み外れた突進力が、日ソ領土問題に風穴を開けたのである。
田中政権下、日本の政治、外交は活気を帯びていたものの、昭和47~48年に至る世界情勢は「戦後日本人」の想像を絶する変動の時代であった。 田中角栄の政権はその後49年秋に起る「金権批判」で非難ゴウゴウの中に倒れるのである。
49年11月26日の朝が田中政府の幕引きとなったが、田中角栄首相は自らに向けられた「金権批判」と、国政混乱の責任をとり退陣したが、これに対し 「惜しい人物だ」「惜しい」 の声は多かった。
「ロッキード事件」 とは?その裁判には常識では分からない不可能な事が多すぎる。
「ロッキード事件」 というのはアメリカの航空機製造の大手会社「ロッキード社」による、同社の旅客機の受注をめぐって明るみに出た 世界的な大規模汚職事件の事である。
ロッキード社の旅客機「トライスター」の日本市場への売り込みに当たって、日本の財政界に巨額の賄賂がばらまかれた、という事件で田中角栄が五億円を受け取ったという疑惑ですが、事実の証拠は何もない、そして不可解な事が多過ぎて、事実を知る人は誰もいない。 田中の側近だった 石井一は「今でも田中が金を貰った事は信じたくない」 と言っている。
田中は東京地裁での裁判の冒頭で次の様に述べた。
「いやしくも国民の信託を受け国政の最高責任者として、日本国民を代表する栄誉ある内閣総理大臣の地位にあった者が、事実の有無はともかく外国商社から数億の金を受け取ったとの検察当局の疑いを受けて、起訴されるまでに至ったこと自体、これに勝る不名誉はなく栄職を汚したとのそしりを免れる事の出来ない事は十分承知しています、そしてこの事件を中心にして国政混乱を生じ国民に迷惑を掛けた事に対して私の不徳に起因するもので、その責任を痛感し深く国民にお詫び致します。」 と陳述をしている。
そうして田中の思いは、ロッキード裁判でハッキリと無罪を勝ち取ることである。 そこに政治家としての アイデンティティを求めた。そして自らの「冤罪」をはらそうとするのである。 その為議員はやめない。 そして昭和51年の総選挙では 新潟三区でトップ当選するのである。
田中の後の総理は、中曽根内閣が誕生した。 田中はロッキード裁判で「無罪を獲得する」 との執念で、さらに昭和58年の総選挙で自己最高のトップ当選する。
しかし ロッキード裁判は長引き最高裁まで持ち込まれた。
彼を陥れた既存の秩序に対して 「潔白を証明してみせる」 と闘志を燃やして戦いを挑んだのである。
しかし歳月は遠慮なく過ぎ去り 昭和60年2月27日田中は東京目白の自宅で倒れた。脳梗塞だった。 病状は重くその後言葉を失った。
そして田中は政治も裁判についても語る事をやめて、療養を続ける身となり、平成5年12月16日に東京信濃町の慶応病院で死去した。まだ75歳であった。 最強の「叩き上げ、下士官あがり」 の代議士であった。
決して有名大学出、名門の出 ではなかったものの、彼の頭脳の切れ味は 高級官僚出身者や名望政治家をはるかに凌駕していた。そして戦上手でもあった。
鬼才!真に惜しむばかりである。
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